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士 燮(し しょう、Shì Xiè/Shih Hsieh、、137年頃〔狩野「士燮」『アジア歴史事典』4巻、159頁〕〔宇野「シー・ニエップ」『ベトナムの事典』、155-156頁〕 - 226年)は、後漢末期から三国時代にかけて交州(ベトナム北部)を支配した豪族。士燮は中央政府から半ば独立した政権を構築し、支配領域は華南、紅河デルタ、タインホアに及んだ〔桜井「南海交易ネットワークの成立」『原史東南アジア世界』、121-124頁〕。弟に士壱、士䵋、士武。子に士廞、士祗、士徽、士幹、士頌。甥に士匡。 == 生涯 == 士氏は元々魯国汶陽県(山東省曲阜市北東部〔)の人間だったが、王莽期の混乱を避けて南方に移住し、蒼梧郡広信県(広西チワン族自治区梧州市蒼梧県〔)に定着した。士氏は蒼梧の土着の豪族として力を蓄え、士燮の父の士賜は交州に本籍を置く人間として初めて日南郡太守に任じられた〔後藤『ベトナム救国抗争史』、152頁〕。 士燮は若年時に洛陽に遊学し、頴川の劉陶に師事して『春秋左氏伝』を学んだ〔。士燮は孝廉に挙げられて尚書郎となるが、宮廷内の政治闘争に巻き込まれて免官される〔。後に茂才に推挙され、父の死後に南郡の巫県に県令として赴任した〔。 184年頃〔〔に交州刺史の賈琮の推挙により、士燮は交阯太守の地位に登る。交阯太守に任じられてから数年後、苛政のために現地の人間から恨みを買っていた交州刺史の朱符(朱儁の子)が殺害される事件が起きる〔。士燮は混乱を収拾するため、弟の士壱を合浦太守に、士䵋を九真太守に、士武を南海太守にすることを朝廷に上奏する〔後藤『ベトナム救国抗争史』、153-154頁〕。士燮の上奏は認められ、士氏の勢力は交阯、合浦、九真、南海に広がった〔後藤『ベトナム救国抗争史』、154頁〕。 200年に長沙、武陵、零陵を支配下に収めた荊州刺史の劉表は交州への進出を図り、配下の頼恭を交州刺史、呉巨を蒼梧太守に任命した〔後藤『ベトナム救国抗争史』、157頁〕。劉表と対立していた曹操は士燮を綏南中郎将の地位を与えて交州七郡の監督を命じ、士燮は朝廷に貢納を続けて関係を維持し続けた〔。 210年に呉の孫権が交州に歩騭軍隊を派遣すると、士燮は孫権に降伏する。長子の廞を人質として孫権の元に送り、廞は武昌の太守に、他の士燮の子と士壱の子には中郎将の地位が与えられた。また、士燮は劉備の支配下にあった益州(雲南省)の豪族・雍闓を孫権の勢力に引き込む仲介役を務める〔後藤『ベトナム救国抗争史』、158頁〕。益州への干渉の後、士燮は衛将軍に昇進し、龍編侯に封じられた。 226年に士燮は90歳で没し、士燮の死後、士氏の交州支配は崩壊する〔後藤『ベトナム救国抗争史』、169-170頁〕。士燮の墓は広西チワン族自治区の蒼梧県とバクニン省トゥアンタイン県の2か所に建てられ、バクニン省トゥアンタイン県に建立された士王祠では士燮の祭祀が行われている〔川手「ベトナムの教化者たる士燮像の形成過程」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊、141,155頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「士燮 (交阯太守)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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